2013-01-01から1年間の記事一覧

日蓮検定日は2014年3月16日(日)開催、申し込み締切日は2月14日(金)です。受験地は東京・京都・身延(山梨)の3ヶ所、実施級は3級(受験料4300円(税込み)、2級が5500円(税込み)、主催は日蓮検定実行委員会です。公式サイトはhttp://www.kentei-uketsuke.com/nichirenです。日蓮検定運営事務局は東京・神田(日本出版販売内)、メールはinfo-kentei@nippan.co.jp関心がある方はどうぞ。

また、その「しもべの湯治場」の奥にある集落に「湯之奥村」(現在は身延町湯之奥)がありますが、そこには山梨県屈指の国指定史跡の「湯之奥中山金山はじめ内山、茅小屋金山の3金山遺跡」(日本で最初に金の鉱石から金を採取した金山群)や国の重要文化財「門西家住宅」があったり、金山をガイダンスしている「湯之奥金山博物館」が温泉郷の入り口、身延線・しもべ温泉駅から3分程度のところにあり、金山の全てが楽しく勉強できますし、なんと砂金採り体験まで出来てしまいます。

さらには中之倉トンネルを潜り抜け国道300を下る道は、カーブが多いですが、通称「身延いろは坂」(かつて私が「しもべイロハ坂」と命名した坂道ですが、途中南アルプスの展望台があったり、坂を下り終えるところには「しもべ道の駅」、更に進むと1200年の歴史を誇る古湯「下部温泉郷」、湯治場で全国に名を馳せた名湯でもあります。ちょっと寂れた温泉街に郷愁を思い起こすでしょう。ゆっくり湯につかりたいものですね。

撮影ポイントは、本栖湖の西端、身延町の中之倉トンネル(国道300)に入る手前になりますが、皆様お馴染みの撮影ポイントです。かつては五千円札、今は千円札の裏に見られるこの景観、見事ですね。展望台(トイレ)がありますから、富士山観光では富士五湖の最も西に位置する本栖湖まで足を伸ばしてみては如何ですか。

こんな時、ちょっとの時間を活用してリアルタイム(10分間隔で映像が更新)で世界遺産富士山と構成遺産の富士五湖の一つ本栖湖をご覧になっては如何ですか。パソコンで「山梨県身延町」を検索、表紙に富士山の画像が見えますがこれをクリックしますと大きな画面でみることができます。何かホットするものがありますよ。

2013年もあと半月、この1年も目まぐるしく動き回りましたが、あっという間でした。

今回のPJを通じ色々な形で、色々な繋がりが始まったこと、これは大変な財産を得た感じですが、この火を消すことがないように、より以上に連携を深めていくことが出来れば嬉しく思います。

もとよりこのイベントには、他のPJの皆様の協力も頂きました。富士川流域教育旅行誘致推進を図る(富士川流域観光公社・仮称)PJの皆様や、こしべんとPJの皆様、ありがとうございました。一応、このサイクルPJの副会長を務めている関係からも感謝の意を伝えたく思います。

山梨県企画部・企画課の皆様、峡南5町の町長さんや担当者の皆様はじめ、このPJに関わりました青木茂樹会長はじめ、裏方を熱心に務めて頂きました山本薫さん、石部典子さん等々、書き切れない多くの皆様方が一体となって取り組んだ結果が成果となって未来へ夢を繋げました。下部温泉郷の皆様や峡南高校、市川高校、さらには甲府工業高校や笛吹高校の自転車部の皆様など若者の参加が嬉しかったですね。今中大介さんも大喜びのようでした。

第一回ツールド富士川が開催されました。秋晴れの好天のなかカリスマ今中大介氏と共に150名を越えるサイクリストが国道52を駆け抜けました。中部横断自動車道沿線活性化推進協議会の北部区間2PJ,峡南区間4PJの計6つのPJに関わる峡南4PJの一つ峡南5町(富士川町・市川三郷町・身延町・早川町・南部町)を駆け巡る活性化PJとしての「ツールド富士川」大成功裡に終えることができました。望月仁司身延町長には寒い早朝からクラフトパークへ駆けつけて頂きました。今回時間の関係で南部町、早川町の2コースはセットされませんでし

元亀2年(1571)黒川金山や湯之奥中山金山の金山衆十人に、相模・深沢城攻めで功績をあげた金山衆(黒川は7名)、中山は10人に褒美が贈られたが、黒川の7名中に中村を名乗る金山衆がいて、この大月市賑岡において中村姓を名乗る家にその書状が伝承されていることから、黒川型の挽き臼を使っていることと重ね合わせると、黒川金山からこの地へと移動してきた可能性が高い。(記事・つづく)

両金山とも旧い型式の磨り臼、回転式挽き臼などをもつ金山で戦国時代から江戸時代にかけての早い段階において鉱石から金を産出した山金山遺跡と評価できます。大月の金山金山は、賑岡町奥山の民宿河野園(河野正雄さん)の所在地が「金ねん場」と言われる場所にあたり、そこを中心に浅利川の両岸に採鉱跡(露天掘り跡や坑道掘り跡)を沢山残します。

戦国時代の二つの金山遺跡見学会

大月市と上野原市内に残る戦国時代金山の見学会が金山博物館主催で開催されました。大月金山金山と秋山金山金山(かなやまきんざん)でした。両金山とも確かな歴史に触れることができました。

この意見に賛同していただける方は、是非ともコメントを入れていただければ幸いです。

ただ、天守閣を建てれば、甲府が活性化すると言った短絡的な考えは、逆に甲府を台無しにしてしまうと言うことを肝に銘じて欲しいと願っています。

しかし、事もあろうにその県指定史跡・甲府城跡に「天守閣」の話は、広島大学のM教授が、天守閣があったとするなら、これしか考えられないと言った歴史を冒涜するような絵に踊らされてしまっている皆様がいる訳ですね。むしろ旧城下町に残る武家屋敷跡始め、旧町名で知られる代表的な職人・商人の町並みを復元し、躑躅が崎の館、甲府城と甲府城下町の歴史を彷彿させる散策ができる古都「甲府」のあり方こそが、いま必要だと考えています。

いわゆる歴女と言われる皆様も、本物の歴史に触れる体感を求めて、歴史ドラマの地へと足を運んで来ますが、はじめから作り物の天守閣には興味を示しませんね。むしろ戦国の武田氏時代の躑躅か崎館跡(武田神社のあるところ)やその城下町、さらには慶長初期には築城された現在の甲府城跡やその城下町、甲府はこの2つの城下町が一部重なり合っている貴重な城下町の町並みを残している重厚な歴史ある地方都市なんですね。これを大事にしなければいけません。これこそが観光資源なんですね。

最近、県指定史跡「甲府城」に天守閣を建てようという声が聴かれます。目的は観光ですが、果たして史実に基づかない天守閣にどれだけ観光資源としての価値があると言うのか全く疑問ですね。私は真正面から「反対」です。

作られた祭りを脱皮、本来、地域社会にあった素朴な本物の祭り、残された自然や文化財(歴史)、そして地域に残る伝統的な農工商産業とのコラボ、それをトータルに回遊出来る大掛かりな、プログラムを検討すべきですね。

結果として何か結集されたパワーが見られない、一部分の方々が自己満足的なパフォーマンスを繰り返していますが、底辺が疲弊してしまっていますから、盛り上がらず一過性のイベント、それも未来へ繋がっていかない、なぜ一つ一つの成果が蓄積していかないのか、根本原因は「予算があるからやる式イベント」の繰り返しだからですよ。国文祭、悔しいかな県外からの観光客の動員は、評判は伝わってはきませんね。

山梨県観光、今年は全体的に沈静化しています。富士山の世界文化遺産登録も局地的な効果は出ていますが、多くは観光客が減少しています。こんな中にありますから、抜本的に山梨県観光を見直すべき時期が到来したのではないかと考えています。「笛吹けど踊らず」状態の山梨県観光、山梨県の観光資源はもろに沢山あるのに何か大きなポイントがズレていたり、素材が使い切れていなかったり、連携が果たせていなかったり、それも人材が不足しているのかも知れませんね。

国内旅行業務取扱管理者試験合格しました。

総合一回、国内十回挑戦してきました旅行業務取扱管理者(国家試験)11年の歳月を要しましたが、多くの皆様に励まされながら合格しました。お騒がわせ致しました、11年でしたが皆様への感謝の気持ちで日記に書きました。有り難うございました。来年から…

私の持論は、一過性のイベントでなく、やるなら未来に繋がるイベントをやれ、ですので第28回大会が、さらに大きな夢を持って発展することを望みますし、加えてそこから何筋もの、さらなる夢のテーマが発生する一つの契機になって欲しいなと思います。村瀬さん、またまた、よろしくお願いいたします。

近年では日本のペタンクの立役者村瀬直臣さんともメールや年賀状だけの繋がりになっていましたが、この大会でお会いすることが出来ましたが、村瀬さんと話をしますと、何時も泉のように実現可能な夢の話に花が咲きます。今度は山梨県の地場産業ワインの振興に繋がる、国際的なテーマで、次の夢を語りあう事ができました。ワインとペタンクは切り離せませんし、かってはサントリー山梨ワイナリー収穫祭にはペタンク大会を併設して数年やって来た経緯もあります。ワイン業界を国際的な定位置に据えるような夢物語です。

その後山梨県では、ねんりんピック大会に合わせ、第7回が開催され、さらに今回の28回と繋がりました。ブローニュの森で見たペタンクが42年の歳月を経た中で、このように盛大に開催できたこと、ずっと辛抱強くここまで繋げてきた大会ホストを務めた山梨県ペタンク協会古屋里義会長と県協会関係者の皆様の努力には大変感謝しています。

実は同年4月28日に、同研修ハウスと帝京大学山梨文化財研究所の設置が決まり、私が両施設の所長に任じられました為、秋には整備が終えるだろうと言うことで、村瀬直臣理事長とは、秋になったら第1回大会を開きましょうという夢を描きました。温泉有り宿泊施設が有り、プライベートなテニスコートやプールがあり、さらにはワインがあり、加えて大会に際しペタンク専用コートも整備いたしました。ダンプ5台分の採石を入れ、整地し素晴らしいコートが誕生、ここで第1回大会は大成功に終えることができました。

色々なチャンスに恵まれ第1回ペタンク日本選手権大会は、1986年(昭和61年)11月23日(日)に山梨県石和温泉郷の帝京大学研修ハウスにおいて盛大に開会されました。

日本ペタンク協会(村瀬良臣理事長)所属の第1号の県協会が山梨県ペタンク協会でした。村瀬さんと夢を語るうちに機会が出来たら山梨で日本選手権大会を開催しましょう、と随分話に花が咲きましたが、それが第1回で実現しました。

所属していたロータリークラブの仲間と甲府市内を流れる荒川の河川敷や考古学の授業を受け持っていた県立女子短期大学のグラウンドを使っては、練習や小さな競技会を開催して来ましたが、ロータリークラブ会長の古屋直臣山梨大学学長にこの話をしましたら、ペタンクには文化の香りを感ずる、GBはする気がしないがペタンクならやりたい、と同クラブ内にペタンク同好会を15名位で立ち上げました。これを山梨県ペタンク協会(古屋直臣会長)とした訳です。

その後、フランスを含む欧州各国へ自分が経営する新聞社の取材もあり、またPARIS開催のSIM展へのニット業界(青年部YJK)の出品(3回)や、フランスにおけるニット発祥の地トロア(セジュルネ会長=全仏の会長でもある方)と山梨ニット産地との姉妹産地締結のボランティア活動、さらにはPARIS開催のビジョルカ(国際宝飾展)への出品を希望していた山梨県装身具協会(YSK)の出品交渉やその実現などの仕事をしている時期に、フランス見本市協会の日本代表村瀬良臣氏との交流が始まり、同氏からペタンクのルールなどの資料をいた