2009-03-11から1日間の記事一覧

前記しましたが、このような歴史をもつ下部温泉郷のタスキを、現在現役の皆様はリレーしている訳ですから、これをしっかり次世代へ引き渡す覚悟で、温泉地再生を果たして欲しいと思います。やろうという「意欲」や「知恵」には予算はかかりません。

予算が先行する計画は、裏を返せば予算がなければやらない、ということですから、先ずは「意欲」や「知恵」を先行して考えるべきだと思います。お金は必ず追いかけてきます。

正徳元年(1711)、概ね300年前・江戸期のものですがの関所における高札に書かれている文面には。次のような定めがみられます。

一つ、関所を出入る輩、乗り物の戸を開かせ、笠頭巾をとらせ通すこと、 一つ、往来の女、つぶさに証文に引き合わせ通すこと、附・乗物にて出る女は、番所の女を差し出して、相改むべきこと、 (以下、略) などとありますから、女の旅人の存在は十分あり、か…

さて房総からの女性信者、甲斐国身延山までの旅は大変なものがあったんではないでしょうか。

ちなみに当時の女性の旅姿はどんなだったんだろうか、「時代風俗」事典(河手書房新社・1979)などで調べましても、男性の絵はありますが女性の旅姿は見られませんので、今後、絵巻などを丹念に探してみたいと思いますが、旅の雰囲気を知る手がかりとし…

下部温泉郷は、1000年以上の湯治場としての歴史をもっています。およそ750年前には、房総(千葉)からの女性信者が、日蓮聖人を訪ね身延山へやってきましたが、下部の湯治場へ来たついでにきました、と聖人に告げたようで、ついでとは何事かと、追い返したという、聖人が友人に宛てた手紙にそのことが残され(日蓮遺文集)ています。

この時点で下部温泉は湯治場として広く関東一円にその名は広まっていたことが分かります。それなら下部温泉郷(湯治場)の成立時期はいつかとなりますが、温泉街を前提とした湯町の「熊野権現社(熊野神社)」の創建時には、湯治場としての湯町はあったと思…

いよいよ本格的に「下部温泉郷」活性化の動きが始りました。山梨県観光部や身延町観光課は、下部温泉郷復活に向け、昨年より協議会全体会議2回、ワーキンググループ会議8回、さらに湯町関係者は、頻繁に情報交換会を重ねるなどを経てプランを集約、来年度の活動に向け本気モードで始動します。