2011-10-03から1日間の記事一覧

多くの県内外の皆様、「一般公開」の日を楽しみに、歴史ロマンを体感しに、是非山梨県へお出かけ下さい。

この碁石金が散逸したら2度とお目にかかれないでしょう。今回の県立博物館への収蔵が決まったことに安堵しています。

これは、信玄の時代に金1両=金4匁〜4匁2分(田舎目)と考えていたのではないかと思われます。つまり、甲州金である「碁石金」は、貨幣への萌芽期の貴重な歴史資料だと言える訳です。

さらに、慶長8年に江戸幕府が開かれます、その江戸幕府の慶長小判は慶長6年頃から鋳造が始まりましたが、その規定量目は(4匁7分6厘)17・85グラム、品位は金84・29%、銀15・71%で、結果、慶長小判の金使用量は、(約4匁)15・05グラムとなっています。

武田家はこの遺産(制度)を残し、天正10年に滅亡しますが、それから14年後くらい未だ江戸幕府が開かれる以前の慶長元年前後に、我が国最初の4進法による甲州金貨幣制度が始まります。「両、分、朱、糸目」です。つまり「4糸目が1朱、4朱が1分、4分が1両」です。この1両金貨の量目がなんと信玄公の「碁石金」と同じ(4匁)約15グラムなのです。

さらにこの「碁石金」の量目(目方)、諏訪大社の例を見ますと、13・58〜16・45グラム、平均14・47グラム(約15グラム)。「蛭藻金」はこの倍数で作られています。

現存する資料は、現在、諏訪大社(出土地は諏訪大社下社秋宮)に信玄公が奉納されたとみられる「碁石金」31点と蛭藻金11点。それと、今回の甲州市出土のもの。単品で蛭藻金など1〜2点の出土例はかって見られましたが(国立東京博物館蔵)、大量に出土した例は、上記2ヵ所のみ。それだけでも今回の「蛭藻金」、「碁石金」の現物(本もの)資料は貴重だと言えます。

「碁石金」は、戦国時代、武田信玄公によって褒賞や社寺への奉納に使われたもので(甲陽軍鑑)、当時20ヵ所は下らなかった多くの金山を抱えていた甲斐国内の「金」を使い鋳造されました。

甲州市(旧勝沼)から、かって発見された甲州金の「碁石金」16点と蛭藻金2点、中国からの渡来銭2千数百点の購入へ向けて手続きが進められている報道を拝見、本県にとって極めて大事な歴史資料が県立博物館の収蔵品に加わるという大変ビックなニュースに接し嬉しくなりました。