山梨県考古学協会(山考協)が30周年を迎え、12月13日にベルクラシックに於いて、記念イベントが開催されました。昭和54年10月21日に結成されてから数え丁度今年10月21日をもって30年という記念の年になりました。

ktaniguchi2009-12-14

 昭和31年4月、私は大学で考古学専攻の道を選びましたが、当時の山梨県における考古学研究のレベルは、大変低いものでした。大学の教授や先輩からも、君らが頑張らなければ駄目なんだ、と激をとばされての大学時代でしたが、38年に帰郷、その翌日からアクションを起こし、県教育委員会社会教育課文化財係を訪ね、当時の文化財行政のあり方など聴きに行ったのが、私の山梨県での活動の始まりになりました。
 昭和40年に考古学研究会を立ち上げ、考古学者井出佐重先生(山梨県議会議長など歴任)、飯島進さん(不動産鑑定士)、そして私の3名が常任委員で運営、とりわけ県教育委員会への考古学専門の文化財担当者の設置を提言、それが昭和45年に実現、山梨県文化財行政が大きく変わる時を迎えました。風土記の丘公園建設用地の文化財調査で関東でまれに見る規模での方形周溝墓群の発見があり、この保存運動で県内12の研究会が大同団結、昭和54年(1979)10月21日に山梨県考古学協会が誕生しました。それから30年を今年10月21日に迎えた訳です。
 この間の山梨県の考古学研究や文化財行政(文化財保存)のあり方は、他県を凌ぐ凄いものがありました。
 昭和57年には山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センターが開館・開所、昭和59年には、山梨県考古学協会が母体となり、山梨学院大学において「日本考古学協会」の大会を誘致、それが出来るだけ山梨県考古学協会に力がみなぎってきました。昭和61年には帝京大学山梨文化財研究所(同研修ハウス)が設立され、山梨県における歴史・考古・民俗など各領域の日常的な研究拠点(研究者の居場所)として活用されるようになりました。その後、昭和63年には、保存運動むなしく遺跡は消えましたが釈迦堂遺跡博物館が開館、平成4年には、都心の大学においての運営が通例でありましたが、「日本考古学協会1992年度総会」が再び山梨県考古学協会のホストで、山梨学院大学において開催されました。昭和59年度の大会運営を成功裡に実践した山梨県考古学協会の力が認められたことになります。
 山梨県考古学協会は学術団体として、また考古学研究の推進はもとより、文化財保存運動など通じ、後継者の育成にも力が注がれました。研究会(シンポジューム)開催や、研究論集や研究誌刊行など数々の行事をこの30年間間断なく続け、また走り続けてきました。
 いま思えば、山梨県は考古学研究のエアーポケットだとまで言われてきた事が信じられないくらい発展を遂げました。